韓方、韓医学はいつから日本に?歴史的な繋がりは、ここから!

韓国(朝鮮)と日本の歴史を遡ってみると、
医学的な交流やつながりはかなり古くから存在していたようです。

日本と韓医学のつながりは遡ると『古事記』まで

記録に残っているものでは 414年、
日本は允恭天皇(いんぎょうてんのう)の時代、
王位に就く前から患っていた病を治すため、
神羅から金波鎭という人物がやってきて 治療を行い、
多大な報酬を受け取り、 神羅に戻ったという記録があるとのこと。

『古事記』にも記述されているそうです。  

金波鎭は日本では「久須利師」と呼ばれていて、
薬(くすり)の語源もここから来たとされる説もあるそうです。

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日本最古の医学書にも、韓医学の内容が

その後も日韓の医学交流は進んでいたことは 984年、
日本で丹波康頼が編述した『医心方』からも分かります。

『医心方』は日本に現存する最古の医学書です。
その中に、『百済新集方』『神羅法師方』など
数種の韓国医学書の内容が記録されているそうです。

韓医学の発展と『東医宝鑑』

韓国ではその後、朝鮮時代(1392〜1910年)に大きな発展を遂げます。
医学においても、韓国独自のものを確立させました。

1433年刊行の『郷薬集成方』では
韓国(朝鮮)国内で採れる生薬「郷薬」の有効活用を促進し、
1445年には韓医書の集大成とも言われる『医方類聚』が編纂されました。

そして、それらの影響を受けながら、1610年に東医宝鑑が完成します。
編纂したのは、ドラマにもなり日本でも馴染みのある 名医ホジュンです。

韓医学を取り入れ、庶民を救った日本の将軍

この『東医宝鑑』は朝鮮第一の医書として評価が高く、日本にも導入されました。
日本の教養人は漢文の素養を持っていたので翻訳の必要がなく、広く導入されたのです。

とりわけ、日本でとても『東医宝鑑』を気に入り、導入しようとした将軍がいました。

江戸時代の徳川吉宗です。

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吉宗の令により、1724年(享保9年)に日本版が刊行されています。

なぜ、吉宗は『東医宝鑑』を気に入り、自国でそれを導入しようとしたのでしょうか?

享保の改革では、医療改革が熱心にすすめられました。
当時日本でも問題だったのは、疫病です。

疫病で命を落とす確率は、貧しくなればなるほど高まりました。
薬どころか、日々の食事さえもまともに摂れないから当然です。
吉宗はいつも真っ先に犠牲になる庶民、貧しい人々を助けたかったのです。

それはまさに、『東医宝鑑』をホジュン先生に命じて作らせた王様、宣祖王の考え方そのものです。
宣祖王も貧しい人々を助けるための医学書を作るよう、ホジュン先生に命じたのです。

貧しい人々は一度病気になれば、それは死を意味するほど大変なことでした。
韓方薬の材料は高くて買えませんでした。

どうすればよいのか?
病気にならなければ良いのです。

ということで、『東医宝鑑』は、病気にならないための
健康管理、養生が一番大切だと伝えています。

庶民がお金がなくても、山で採れる山菜や野菜、
植物などの食材の効能が書かれています。

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薬の前にまずは食事で健康管理する

「食治」「養生」が最も大切だと主張しています。

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